MIFFER a.k.a MIFYAH (dUb MaFfia) Interview
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レゲエ・ダブ界の歌姫歌番長Mifferから発せられる言葉の一つ一つは、母親になった現在でも鋭さを増し人々を包み込む。そんな彼女の貫禄十分な歌声と言葉の裏側を少しだけ覗いてみました。女性であり母でありアーティストでもあるMiffer。ハイになるまで愛し合う!その本音は現実を見つめ時代をしっかりと風刺したパンク精神と愛に包まれたものでした。
MIFFER a.k.a MIFYAH (dUb MaFfia) インタビュー
何から話そう?(笑)
—–まずは生い立ちから(笑)
生い立ち?いいよ(笑)。生まれはね、千葉県の勝浦市。南房総の右の角の端。今だに海亀が産卵するようなビーチがある港町で生まれた育ったよ。
—–やはりビーチなんだね(笑)
もうビーチから1分とかのところに住んでて。でも半島とかってだいたいそうなんだけど、海のすぐの所に山があるから、その狭間のちょっとの土地に人間が住んでるみたいな。学校帰りにビーチに寄ったりするとサメがさ、、、
—–サメ?(笑)
そうそう1mくらい?のサメ(笑)。で、そのサメが引き潮に乗れないで波打ち際に打ち上げられてたりしてて。それでかわいそうだから皆で海に返してあげようみたいな。そこら辺で倒れてるおじいさんを助けてあげるような感覚で(笑)。
—–なんだか景色が見えてきますな(笑)。
うん(笑)。ビーチ付近まで鹿の群れが出てきて、その様子を見てたりとか。海にはタツノオトシゴもいたり、そんな大きな山じゃないんだけど、山には猿とかたぬきとか鹿がいてっていう半分人間半分自然な環境で育ちました。
—–東京に来たりは?
叔父が歌舞伎とかお芝居関係の仕事をしてて、3歳頃から銀座の歌舞伎座に連れて行って貰ったりしていて。寝ないで3時間位?の歌舞伎をずっと観てた。今でも記憶にあるくらい、東京も歌舞伎も人々も街並みも、全てが刺激的だったし強烈だったな。
—–3歳で歌舞伎観れちゃうのは、興味があったのかな?
多分勝浦の生活と違いすぎて興味深々だったんだと思う。衣装とか凄いし、話し方とかも、後、和楽器のセッション感とかそういうのが凄い不思議だったのかな。それ位の頃からああいう、強烈な表現者に憧れというか、心臓を直接掴まれたような・・。
いやー田舎娘のアレでしょ(笑)かなり興味深々だったからね(笑)。
—–幼少時代の勝浦での音楽環境は?
小さい頃からピアノを習ってたんだけど、小学校の2年生?の頃からは、ユーフォニュームっていう金管楽器をやってたのね。ざっくり言うとトロンボーンとチューバの間くらいの音域で、大きめなホーン。50人ぐらいだったのかな?校内でブラスバンドがあって。今考えるとドラム隊にティンパニー、ボンゴ、スライドホイッスルからグロッケン、リラ、トランペットからチューバまでの各ホーン隊3~4人ずつ居たり、他にも楽器の種類が相当充実してましたね。それで課題曲が結構ラテン音楽とかラ・バンバとかで(笑)。南太平洋って曲が凄く壮大で強烈に覚えてる。『テキーラ』もテキーラの意味すら分からず楽器を外して、『テキーラ!』って言うみたいな(笑)。夏になるとビーチで音楽がかかってたり、学校の掃除の音楽がビートルズとか、幸いなことに日常に音楽が溢れていたんですね。新譜とかも2駅隣の数少ないCD屋の端の小さな洋楽コーナーまで行って、色んな人や曲が聴きたいから、オムニバス中心、懐かしい『100%シリーズ』とかのコンピも買い漁ったりしてチェックして。選択肢が少ないから、前に買ったのと半分くらい曲がかぶってても買うみたいなさ(笑)音楽はずっと好きだったのね。
—–もう当時から今の原型が(笑)。
それはあるかも。中学の頃は長刀武道やってて歌は友達と毎日歌ってた。高校では歌もやってたけどダンスもやったり。波乗りも。大学は出たけど、本当は機材とか音作りの勉強をしたくて音楽系の学校に行きたかったんだけどね。
—–クラブ遊びはいつ位からしてたの?
中2か中3の頃かな~(笑)。勝浦から銀座も飛び越え、渋谷原宿も飛び越え、新宿も飛び越え、池袋のマダムカラスっていうクラブ。当時は日本人も少なくて黒人さんばかりだったような(笑)。
—–凄いおませさん(笑)。一人じゃないでしょ?
今も友達なんだけど板橋に女友達が出来て。ね。
—–そもそもあの携帯も無い時代にどうやって知り合うの?(笑)
東京に憧れが凄いあって。千葉駅とか行くんだったら後40分かけて東京に行こうと。それで銀座に毎週日曜日歩行者天国になる場所があって、そこに行くだけでワクワクしてたんだけど、歩行者天国でシャボン玉を飛ばしたりして遊んでて(笑)。田舎モンだな~(笑)。
なんかいるだけで良かったんだよね。都会を感じるというか(笑)。その子と出会ったのも銀座で偶然。年齢が近いっていうのもあったけど、なんか当時って気軽に話したり出来る風潮だったというか。長いつきあいですね。
—–でも、当時って出会っても連絡手段無いよね?自宅の電話位しか。
メールとかも無かったし、ポケベルとかPHSは世の中にもうあったけど、FAXとかで結構やり取りしてたかな(笑)。くだらない話しを延々と、箸が転げてもおかしい年頃だったんだよ(笑)。時代感じるね(笑)。
—–FAX(笑)。
その頃の音楽以外の興味は?
日本っていう国の中で、勝浦と東京の距離でさえもこれだけの違いがあるから、更に海外の言語とか音楽とか文化とかに凄く興味はあったかな。そういう大学も志望してたんだけど高校2年位から段々落ちぶれて来て(笑)。アレ?って(笑)。気が付いたら大学行くのにも浪人してた。
—–初めてちゃんと人前で歌ったのは?
渋谷ブエノスに遊びに行ってたら、新宿のizmっていうクラブでパーティーをオーガナイズしてるって人に出会って。それまでも高校の時にクラブじゃないけど歌ったりはしてたんだけど、ちゃんとしたクラブイベントに出たのはその時が最初ですね。
—–その時からレゲエ系の音を歌ってたの?
まだその頃は、全然レゲエとかダブとかそういう感じどころか、持ち歌もなくて、ビッグチューンでSweet Boxのカヴァーとか歌ってた。R&Bとかかな。
—–まだヤーマンでは無い時代かな(笑)。
生まれた時からヤマンだよ(笑)。遊んでたのは割りと六本木の黒人が集まるような場所で(笑)。結局音楽のジャンルとかじゃなくて黒人文化に凄く興味があったんだよね。でも、今思うと凄く良かったのが、一晩でレゲエもヒップホップもロックも聴けちゃうっていうクラブがたくさんあったから、当時幼少時代に聴いてたさっきも話したような良い意味での乱雑なオムニバスがそのままクラブで聴けるっていうね。SNOWとユーロビートとR&Bみたいなね。
—–U2とかそういうロックも。
そうそう。今みたいに細分化されていなくて、もっと、はいこれ全部洋楽!って一括りに括られてた時代。多様な人種や音楽とか文化に直接触れられるんで、渋谷より六本木って感じだったのかな。渋谷に臆してたのかも(笑)。
—–僕も10代後半はガスパニックに通った時代もありました(笑)。
私も行ったことあるよ(笑)。もっとマニアックな所とかにも行ってたし、懐かしい(笑)。
—–結構そうなると洋楽全般に影響を受けてるのかな?
洋楽もそうだけど、思想というか・・・凄く影響を受けたのが実はパンクなのね。パンクなメッセージっていうのが、今の自分を形成したっていうのはあるかも。パンクを経て、いろんな音楽を知って今のレゲエだったりダブに辿り着いたからね。だから自分の思想とか生き方を決めたのは、パンクとレゲエになるのかな。
—–パンクとレゲエのメッセージ性は確かに近い。
REBELっていう部分で、凄く同じバイブスを感じる。
日本のアーティストだと忌野清志郎とかブルーハーツなんかは中学校の頃の自分にとってはヒーローみたいな感じだった。力強いメッセージと思想を持っていて凄く影響を受けた。大学の時に書いた論文とかも、現代社会思想の事を書いて。全部の大学に美術館付けろ、実物を抜き去るなとか、ゆとり教育サッサと辞めろとか(笑)。たとえば、沖縄でハブに噛まれたり海や山で何かあっても、あいつは馬鹿だなぁあんな所に行くから、てのが、東京だと人間が造った物しかないから何が起こっても誰かのせいに出来る嫌な感じとか・・。そういう事をいっぱい書いて。何より、その当時でさえ、今より社会の状況はもっともっと悪くなるだろう。こどもたちには、それでも生きろと言わなくちゃならない、それなら自分には何が出来るのかとかね。結局、大人が寄ってたかって子供の本来持って生まれてきたチカラや可能性を丁寧に削ってるだけだって。その当時、女性でそういう事言ってる人は身近にいなかったから頭がおかしいと思われてたかも(笑)。
—–確かになかなか直接的な批判を言うのは勇気がいる。
ライブとかでもコンシャスな歌を歌うと、『もっとラバダブみたいな感じの方がいいんじゃない?』とか言われてしまったり。今思えばもっとパーティーの色とか空気を読まなくてはならなかったこともわかりますね。
—–当時は自分の思いの丈をぶつけてたと(笑)
そうそう(笑)。今思えば恥ずかしいこともいっぱいある。みんな楽しくやってるのに、そんな中、『言わなきゃ言わなきゃ』っていうのがあって、UKの7インチの裏表じゃないけど、ラブ&コンシャス的な部分を凄く主張してた。今でもあんまり変わらないんだけどね(笑)。おじさま兄さま達とかパンクな人達からはすごく受け入れて貰えたけど(笑)。
—–あいつは頭が変だって(笑)。
あれ?(笑)。でも尊敬する方々たくさんいるけど、その中のお一人に、子供産まれてから「MIFFERて前はもっとクレイジーだったよね」って言われてせつなかったわ(笑)。アカンやばいみたいな(笑)。
でもさ、今でも女はあんまり政治に口出すなみたいな風潮ってあるのかな?でも、女だからこそ口出すみたいなのあるよね。特に今母親になって更にそう思う。子供達の将来ってこのままだったら、もっと悪くなるだろうって思うから。だから言わないとって思って。
—–子供がいない時でもそういう事を感じながら活動してて、実際自分が母親になってどう変わった?
根本的に自分より優先しないといけないし、本能的に守らないといけない。今までは唯一の希望は子供達っていう想いはあったけど、全て自分の想像を超えてくる。例えば想像で家族の歌とか歌ってたけど、現実は綺麗事だけじゃないっていうか。『アナタがいるから』とか、『愛してるよ』って言うだけじゃ全然ダメで。やっぱり嫌われ役じゃないけど、言いたくない事もしっかり言わないといけないし。子供は見て覚えるからその為には自分の行動も正されていく。
活動なんかも、やはり音楽だけが独立してるんじゃなくて、更にカルチャーとか日常とか他との繋がりの中に『在ってしかるべき』ものって強く感じますね。
—–なるほどね。
それと実際母親になって、今度は自分の母親に対する感謝の気持ちも変わったし、昔を思い出しては、嗚呼あれも深い愛だったのだと。それに、娘に対しては『そんなにがんばらなくてもそのままのあなたで元気に笑っていて欲しい』って。毎日清く優しく仲良く強く。親として子供に親孝行とかそういうのって求めないもんなんだなーって。まあ、少なくとも小さい頃はさ。
—–産後一ヵ月で復帰っていう原動力は?
単純に歌わなきゃいけないなって思った。休業っていうのは子供にとってはベストだと思うし、そういう休業をするママさん達のあり方も凄くリスペクトしているのね。ただ、自分のやり方としては、そうなった。
—–でも、実際は当然小さい子供がいればライブ活動なんかも大変だよね。
うん。私は労働階級のアーティストだから、子供を常に見て貰えるわけじゃないし、誰も見て貰えない時はライブにも連れていくしかない。
—–オンブしてね(笑)。
抱っこも(笑)。
—–お母さんアーティストには励みになるよね。
自分自身そういう方々を見てきたからやれていますね。
—–そして今もそのままやっちゃってる(笑)。もちろんそれぞれ個々に色々な現実問題とかあると思うし、復帰したくても出来ない環境もあるだろうし、一概には言えないけど、実際子供が出来たら休むみたいな流れが普通になってしまって、どんどんミファーみたいなアーティストも減ってきちゃうとそれはそれで寂しいよね。
家族や周囲の環境に感謝ですね。まず第一にそう思うし、私の人生観ってたぶんほとんど音楽で身に付けたから、やめるって概念がまずない。いつだって社会には不条理があふれてるしね。音楽だけは本当の事を言い続けてるし、これからもずっとリアルなエデュケーションじゃないといけないって思うから。ボブとかリーペリーとか、数え切れないほどの影響を受けたアーティストや敬愛する先輩方のような、そういう姿勢と音楽でエデュケートするっていうのは、ずっと変わらないししていきたいと思ってる。
—–実際今の世の中に対するフラストレーションって何?
世の中に対してね。う~ん。人間の良心を取り戻して欲しいですね。法律とかも本来は弱い人達を守る物だと思うのね。でも、権力を持った人達の都合の良い言い逃れをする為のツールになっちゃってると思う。国会中継とか一番子供に見せられない。嘘をつくし寝てるし(笑)。
真っ当に行っても世界が歪んでぶつかってくるから。
奪い合うか分かち合うかで真逆の方向ですからねえ。
—–ちなみに今ってソロではあまり歌っていないの?
dUb MaFfiaの活動が優先的かな。
—–やっと音楽的な近況が聞ける(笑)。
確かに(笑)。dUb MaFfiaのメンバーも子供がいたりするから、子供をバンド活動に連れて来てオッケーだし、子供を切り離しちゃいけないっていう環境でやらせてくれるから凄くやりやすい。自然体ですね。実際バンドの『要らない物を無くそう』とか『子供達の大切さ』とかっていう部分の思想が凄く近いから、私の今のスタンスにはまってる。
—–周りに大人がたくさんいると安心するしね。
私が子供を産む前も、メンバーの子供をライブ中にベースのアンプの上に座らせておくみたいな環境だったり、ライブ中にピアニカを弾いてる時に、メンバーの子供が近づいて来て、音を拾ってるマイクの所で童謡とか歌いだしちゃったりしてても(笑)、しかもそれが凄くハマってバンドの効果音になってたり。もちろんケーブルを引っかき回しちゃうとかそういうのは駄目ですが、そういう事がアリだっていう事自体が私達のメッセージにもなってるのかもね。もちろん大人だけで遊ぶパーティーも大事な場所なんだけど、ステージから子供を除外しないといけないっていう考えが無いから凄く自然体でライブが出来る。こどもは未来そのものだから。
—–ライブはどれ位ペースでやってるの?
月一位かな~?時期によるけどね。
—–最近MVも発表されたよね?
うん。去年の暮れにリリースした曲で、『Love Together ハイになるまで』。3年ぶりのシングル。もう間もなく次のリリースがあったり、次に続く何曲かが結構ドンッと重くてメッセージ性の強いのになりそうだから、『Love Together ハイになるまで』は「愛」っていう語りつくされたようなテーマでいこうと。
—–凄く良いタイトルだよね。
いちいち言わなくてもって事をあえて言ってみるけど(笑)、「灰になるまで」と「ハイになるまで」。、人って生まれた瞬間から死に向かって歩んでいくわけじゃない?それは凄く一瞬だから、灰になって消えちゃうまで、そんな一瞬の生をハイになるくらい深く愛し合うっていうアンサーを先に爽やかに伝えておこうかなと。
—–灰になるまでって爽やかではないけど(笑)。
え、そうかなー?(笑)。
—–MVはどんな感じ?
昔からMVとか観るの凄く好きで、面白い映像とかは本当に映画を観るような気持ちで観まくってたのね。MV自体も一つの作品として成り立つような・・・ていうので、奇才・岡本一生(frt.)クンっていう貼り絵とかシールをコラージュするアーティストにお願いしました。
—–観るのが一番いいとは思うんだけど、凄く面白いしアート感もあって良い!
膨大な写真データをひとつひとつ繋げて編集してストップモーションテイストの映像になってる。
是非MVからも色んなインスピレーションを感じて欲しいです。
—–次のリリースは?
ちょっと急いでて。。。かなりコンシャスな深いダブにはなる。
—–内容が気になるね(笑)。でもなんかミファーって昔に比べて凄くナチュラルになった感じはするよね。
最初に話したような田舎に生まれて東京に出てきて、何もコネクションも無くてずっと活動してきて、なんていうか、子供を産む前はダサい自分っていうのを出さないようにしてたんだね無意識に。弱い部分とか私生活とかも含め。凄く尖ってたというか。弱音を吐きたくなかったんだね。でも子供が産まれてから全部曝け出せるようになった。曝け出す前は、聴いてくれたり共感してくれてたのは男が多くて(笑)、FBとかインスタとかのようなSNSでも、現場でも自分が行き詰ってる姿とか、弱い部分とかも言ったりするようになってから、女の子からも凄くリスペクトを貰える様になって嬉しく思います。
—–プロレスのヒールが実はいい奴だったみたいなノリに近いかも?(笑)
田舎から出てきて舐められたくなかったのもあると思うし、ずっと気を張ってたのかなって思う。
今はこどもや料理や日常の話題からなんでもね。娘のおかげかな。こどもには教えることより教わることの方が圧倒的に多い、毎日相当、心身ともに鍛えられますね(笑)。
—–ちなみに、今後の活動は?
ソロでなのかは分からないけど、自分がママになってからのママチューンはリリースしたいなとは思う。私がママチューンを書いたら、愛情一杯っていう内容だけにはならないだろうし、憎まれ役だってやるし、『ママもう嫌い』って言われてもそれでも私は言う。それが母親だって事が分かったから。絶対的な愛情があるからこそ言えるんだよね。娘に背中を見せるじゃないけど、母親に見せてもお婆ちゃんに見せても恥ずかしくない姿っていうかね。
—–なんかもっと歳を重ねて、今度お婆ちゃんになっても歌ってて欲しいし、その時はその時のミファーが見れるだろうから凄く楽しみ。貫禄十分な(笑)。
喉も潰れなそうだし、娘を怒るときも腹から声を出して、『いい加減にしなさい~~~』って低音効かせてるからね(笑)。
—–自然と発声練習になってる(笑)。
後、思うのは。音楽だけはユナイトしてないと今の世の中に立ち向かえないんじゃないかなって。音楽にせよ文化にせよ何にせよお互いに尊重し合って吸収したりされたりして、またタフになってく。愛の話しをまたここで再トークしたのも、実は愛を叫ぶことはきれいごとじゃなく、一番立ち向かっている姿勢なんじゃあないかなと自分で腑に落ちたところがあるのかもしれないですね。
dUb MaFfia – ” Love Together ハイになるまで ” official music video
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