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Michael Kaneko インタビュー

[2017/10/24]

Michael Kaneko - 1st EP『Westbound EP』Release


湘南生まれ、南カリフォルニア育ち、その環境で育まれた感性が生粋の日本人洋楽アーティストを誕生させた。いや、今となってはもはやそんな線引きすらも不要なのかもしれない。音楽に国境はなく必然として良い物は良いと表舞台にさっそうとのし上がってきたシンガーソングライター、Michael Kaneko(マイケルカネコ)。その素晴らしき音、心を描写するように惹きつける魅惑の歌声を携え、一昨年、今年と国内の主要フェスにデビュー前にして異例とも言えるほどこぞってラインナップ。テレビCMや様々なタイアップでもその片鱗を魅せ付けてきた。そんな中、遂に1st EP『Westbound EP』が完成。解き放たれた実態、資性は雑音を吹き飛ばすほどに我を貫く。そのスタイルはどのように築かれ、何を積み重ね、どこへ向かうのか…。


Michael Kaneko Interview

—– まずは幼少期、少年時代の話から伺いたいのですが、湘南生まれ、南カリフォルニア育ちという事で、そこだけ切り取ると色々な音楽と海をこよなく愛してみたいな想像をしてしまうのですが、実際のライフスタイルはどういった感じだったのですが?

実際、その通りですね(笑)。自分で言うのも恥ずかしいんですけど、 元々お父さんが海が大好きでサーフィンとかしていて、南カリフォルニアも湘南の日本の実家も海から徒歩2分ぐらいの所にあって小さいころから海には常に囲まれていましたね。だから学校の前とかに早く起きて海に行ったり、家ではBBQしたりとか、カリフォルニアって自然が豊かなので昔からそういう遊び方をしていましたね。

—– 実はご両親共に日本人で『Michael Kaneko(マイケルカネコ)』って名前は自分で付けたって聞いたのですが本当ですか?

そうです(笑)。向こうに引っ越して4歳の時に「僕も外国人になりたい」って思ってその時マイケルジョーダンが好きで(笑)

—– すごい良い名前だと思います。マイケルはアメリカで多くて、カネコは日本で馴染みのある名前だけど、「マイケルカネコ」だと被らないし、覚えやすくて際立ちますよね。

たしかにそうですね。向こうだと周りはマイケルばっかりだったので、ずっと「カネコ」って呼ばれてました(笑)。

—– 暮らしていたのはカリフォルニアの地名で言うとどの辺りになるんですか?

ロサンゼルスよりちょっと南でサンディエゴとロスの間のオレンジカウンティーって所にいました。ニューポートビーチとかハンティントンビーチとかが有名でカリフォルニアで言ったらサーフィンのメッカですね。

—– オレンジカウンティーは色々有名なバンドも輩出してますよね。

そうですね。ノーダウトとかオフスプリングとか色々いますね。

—– 実際にアメリカに暮らして良かったなって思うことって何かありますか?

やっぱり自然とかもそうなんだけど、普通に音楽は洋楽しかなかったしそれしか聴いてこなかった部分が今活きているかなと。だから日本の音楽とかは日本に帰ってきてからはじめて色々聴いた感じでしたね。

—– 言葉、言語の方はどうだったんですか?

4歳まで日本にいたので日本語もちょっとは話せたんですけど、向こうに引っ越して、家では日本語と英語が混ざっている感じでしたね。でもやっぱり当時は日本語は全然話せなくて、日本に帰って来てから勉強した感じですね。カタカナの読み書きも全然できなかったです(笑)

Michael Kaneko インタビュー

—– 洋楽ばっかりを聴いていた中で特に好きだったり、影響を受けたのってどういった音楽でしたか?

クラシックロックが大好きでイーグルスとかビートルズとかそっち系が多かったですね。後はマイケルジャクソンとか。

—– そこはサーフロックではなく、わりと王道を進んだんですね。

でもジャック・ジョンソンは大好きでした。ギターを弾き始めたのが14歳くらいの時で、そのきっかけは兄貴がジャック・ジョンソンが好きで、その影響で聴き始めたっていうのはありますね。

—– 今回のアルバムの1曲目(Lost In This City)の始まりを聴いたとき、僕はドゥービー・ブラザーズを連想しました。

あー、そうですよね。だからやっぱりクラシックロックのインフルエンスですね。

—– 実際に音楽をやり始めたのは日本に帰ってきてからですか?

そうですね。アメリカにいた時はやりたい気持ちはあったんっですけど音楽はそこまでやっていなくて、ずっとサッカーをやっていたんですよ。プロを目指してたくらい真剣に土日も毎日やっていて、日本に帰ってきた後もずっとやり続けるつもりだったんですけど、色々とカルチャーチョックとかで合わなくて15歳のまだティーンエイジャーの時にやめて音楽をやり始めたって感じですね。

—– 日本に帰ってきたのは高校に入るタイミングとかですか?

中3ですね。引っ越してすごい仲良くなった友達が音楽をやっていて、僕も音楽が好きだったからそういったところから友達ができましたね。

—– これまでバンドをやったりは?

バンドは実際に高校の時にやってました。オリジナルではなかったんですけど、ジミヘンとかクリームとかのカバーをやってて、僕は元々アコギじゃなくて、エレキでバリバリのソロを弾くブルース・ギタリストになりたかったんです。だからそっち系ばかりで、当時は歌も全然歌ってなかったですね。

—– その時のバンドメンバーは同じ学校の繋がりですか?

そうです。横浜のインターナショナルスクールに行っていたので外国人とか僕みたいな帰国子女とかばかりでしたね。彼らも日本の音楽は全然聴いてなかったのでバンドでやるのもそういった音楽がやっぱり多かったですね。

—– そこからどういったきっかけで今のスタイルになっていったのですか?

今のスタイルはバンドをやっていて、大学生になった時にみんな海外の大学に行ったりっていう中で俺だけ日本の大学に行くことになってメンバーがいなくなったので、ちょっとアコギで遊ぼうかなと思って弾きはじめたら、やっぱりアコギだったら歌えた方が良いなと思って(笑)

—– そういった遊びで始めた中で、実際に活動をして行こうと決断するきっかけみたいなことって何かあったんですか?

ずっと音楽をやっていて、バンドでやってるときはライブとかたまにあったんですけど、ソロになってからは自分が人の前に出てやるとは思ってなかったんですけど、ただ音楽はずっと好きでやっていた中で、大学三年生の時に一回アメリカに戻る機会があって、その時音楽って良いな、やり続けたいなって思ったんですよね。その時期日本ではみんな就活をして仕事を探そうって感んじだったんですけど、向こうは大学で色々なネットワークを築いて自分のやりたい事を探すって感じなので、結構自由でそこまでピリピリしてないんですよね。それで俺もこんなピリピリ就職の事を考えないで、もっと音楽を頑張って挑戦してみようかなって。それで大学4年生の時に日本に帰ってきてオープンマイクとかからやりはじめました。

—– その時にはすでにオリジナルの楽曲もあったのですか?

曲はありましたね。人の前ではやってなかったけど、部屋で大学1年生くらいの時から作曲をはじめて、ずっと書いてましたね。

—– 動き出してからは一気にライブの本数とかも増えていったんですか?

そうですね。ただ、バンドじゃなくて弾き語りで活動してたから日本だと難しくて、海外はオープンマイクとかすごい沢山あるんだけど、日本だと最近は少し増えたんですけど、当時は全然なくて、あるとしたら外国人のコミュニティーくらいだったので、そこにできるだけ毎週通って経験を積んでました。だから最初の一年くらいはそういったオープンマイクとかイベントにちょっと呼んでもらってとかくらいでしたね。

—– そこから変わっていったのはどういった部分からですか?

やっぱり部屋で弾くのと人前で弾くのは全然違うので、その1,2年間でライブに慣れて人前で弾く事ができるようになったというのが一番大きいですね。そこに自分のサウンドも少しづつ出て来てやっていけるようになりましたね。

—– その頃スタイルややっている音楽とかは、すでに今と同じような感じだったんですか?

いや、まだ全然違いましたね。もっと分かりやすいというか、ジェイソン・ムラーズっぽいポップでしたね。今もポップだけど、今の方がもうちょっとインディー感はあるのかなと。

—– それは単純に自分自身のその時の趣向によるものですか?

趣向ですね。昔は色々聴いていて、クラシックロックからインディー系のバンドのものまで影響を受けていたんですけど、シンガーソングライターっていったらアコギを持ってこういう感じっていうのがなんとなくあったんですけど、最近は別にそこはあんまりこだわらなくても良いのかなと思っていて、バンドっぽい音楽を一人でやっても全然良いと思って、自然とそっちの方向に行きましたね。一番好きなのはやっぱりバンドっぽい音楽なので。

—– その当時デモ音源みたいなものはご自身で録っていたんですよね?

そうですね、ライブをやりはじめると「CD無いの?」とか聞かれる機会が多くなって、これは必要だなと。たしかに普通多くの人はライブで音楽を聴くよりもイヤホンやヘッドホンで聴いたり家で聴いたりすることの方が多いから、広めるためには何か作らなければいけないのかなと。日常僕の音楽を聴いてからライブにも来てもらいたかったので、それまでもデモ音源はあったんですけど、大学4年生のときにそのデモ音源を集めて、CD-Rに音源を入れてパソコンで焼いて、ヨドバシカメラでCD封筒みたいなのを買ってプリントして作ってましたね(笑)

—– ちょっと光沢の良い紙を使ったりしてやるやつですね(笑)

そうです、でも最初は良い紙でやってたんですけど、値段が高いんで途中からは普通のA4用紙で良いやと思って作ってました(笑)

—– その辺りから音楽を作るという事とは別に、売り込むための動きというのも行っていったのですか?

最初は業界がどんな感じかも分からなかったし、ただライブをしてちょっとYOUTUBEに載せたりするくらいでしたね。今僕のYOUTUBEページには当時まだレーベルとかもついていない時のを全部アップしてるんですけど、どうやって入っていったら良いかもわからなくて、とりあえず活動しようという事でデモテープとかをメジャーのレーベルとかに送ったりすると、「声が良いね」とかすごい連絡はかかってくるんですよ。でも向こうが求めるやって欲しいスタイルっていうのが全然違って、僕もそれでちょっとJ-POPっぽい曲も書いたりしてみたんですけど、「やっぱりこれはやりたくないな」って思って断ったりしてましたね。

—– デモ音源を送った時、わりとレスポンスはあったんですね。

レスポンスは結構ありましたね。でも色々悩んでやめました。

Michael Kaneko インタビュー

—– そんな中、現在はorigami PRODUCTIONS所属という事で、加入してからどれくらい経ちましたか?

実際に所属したのは去年の6月からなんですけど、2年前くらいから色々と手伝ってもらっていて、ライブのブッキングとかコマーシャルの仕事とかは全部origamiを通してやっていただきました。

—– そこはやっぱりひとつ大きな転機になったんじゃないですか?

ほんとにorigamiに出会ってやっと僕のやりたい音楽を信じてくれる所にたどり着いたって感じですかね。
そのコマーシャルの曲とかやっている時、一番反響があったのがパナソニックのCMで、その時すごいメジャーのところからも声を掛けていただいたんですが、皆さんが自分に求める音楽と自分がやりたい音楽にギャップがあって。。。そんな時でもorigamiだけは「マイキーが一番作りたいアルバムを作ろう」っていうのを言ってくれて、これは最高だなって思いましたね。自分の好きな音楽を信じてくれたのがorigamiでした。

—– 今そんな最中にも、色々声が掛かってくる部分なども含めて、環境や状況がめまぐるしく変化していってるんじゃないですか?

去年の5月に東京に引っ越して、その前まではずっと英会話の先生をやってたんですよ。それをやりながら音楽の活動をしていたんですけど、その仕事を辞めて、今は毎日音楽をしてますね。自分の活動以外もCMの音楽を作ったり、トラック作ったりとかしてるからプロのミュージシャンになったんだなっていう感覚はあります(笑)。

なかなかシンガーソングライターって売れている人でも音楽だけでやっていうこうと思うと大変だと思うんですけど、自分の場合はorigamiに入ったお蔭で勉強もさせてもらって、そういった仕事もできているんですごい幸せですね。

—– そういった中でいよいよ本格的にデビュー作がリリースされるわけですが、まず第一に自分のやりたい音楽をやるといった部分に加えて意識したこと、大事にしたことなどありますか?

やっぱり頑固でいることですね。人の意見も聞いてはいるんですけど…

—– 自分のフィルターは絶対通すってことですね。

そうですね。流行ってるからとかじゃなく、僕が好きな曲をやるというのが一番ですね。

—– もし流行ってるやつがたまたま自分の好きな曲だったら?

それはそれで全然良いと思います(笑)

—– そこは天の邪鬼にならずにいけるわけですね(笑)

そうですね(笑)。それと今回のアルバムは、もちろん今気に入っている部分もあるんですけど、5年前に書いた曲もあれば1年前に書いたのもあるので、今までやってきた僕の歴史かなっていう選曲になっていると思います。

—– 今現在、沢山曲がある中で今回収録された5曲というのどうやって選んだんですか?

今、20曲くらいある中で自分とスタッフで話して良いものを選んでいくっていう感じでしたね。最初10曲に絞って、それから5曲に絞りました。

リード曲の『Lost In This City』はその中でも一番古い曲なんですけど、分かりやすさもありつつ、ポップ過ぎないっていうのが良かったのかなと思います。

—– リリックの全作英詞っていうのは完全にこだわった部分なんですよね。

それはやっぱり僕のこだわりですね。全然日本語が嫌とかそういう事ではなくて、実際に日本語の曲もあるんですけど、とりあえず最初はこういう人だっていうのを見せたかったというか、今まで「日本語で歌え」とか言われたこともあったけど、だからこそ頑固にこだわりました。これからはどうなるか分からないけど、最初だからできることだったのかなとも思います。

—– 内容的には結構センチメンタルな部分とかも見せていってますよね。

そうですね、歌詞は全部そういう風というか、基本落ちた時にしか書けないですね。

—– ちょっとナーバスになって一度落ちた所からまたやっていこう、上がっていこうみたいな感じですよね。

そういうのばっかりですね。「ハッピーで大好き、今幸せ~」みたいなのは無いですね。そういうのは逆に書けないですね。

—– 楽しい時とか、酒飲んでテンション上がっているときに書くことはないいんですか?

中にはふざけて書いたりすることもあったんですけど、ほとんどが落ち込んだときとか不幸なときですね。ミュージシャンって結構そういう人多いと思うんですよね(笑)

—– クリエイティブな部分ってそういったマイナスからはじめることでパワーを得ることって絶対ありますからね。

僕はほんとにそんな感じですね。

Michael Kaneko インタビュー

—– 少し話を変えまして、今年はフェスとかの出演も多かったですよね。

多かったですね。9月とかは毎週フェスでしたね。

—– 去年、今年で一通り出演した感じですかね。

そうですね。でもまだアルバムも出ていない状況での出演だったので、あまり知られていないのかなと思って、そういう緊張感はすごかったですね。

—– これからのライブでは今回のアルバムの曲が中心になっていく感んじなんですか?

そうですね、今回のアルバムの曲と他にもたくさん曲はあるので、フェスでは実際この5曲プラス3曲とかやることが多いですね。実際にフェスでやると盛り上がる曲とかも分かってきたので、この5曲は絶対やっていきます。

ちょうど今、11月にやる予定のリリースパーティーのセットリストとかも考えていて、
デモ音源になっている曲とか、ライブではやっていない新曲とか曲はいっぱいあるんで色々考えてますけど、とりあえず今はこの5曲を売らないといけないんで(笑)

—– 今年は特にフェスなどでも全国色々行ったと思いますけど、今後行ってみたい場所ってどこかありますか?

そうですね、やっぱり海外が、この間インドネシアにAmPm(アムパム)っていうユニットと一緒に行ってSpotifyのイベントに出演させてもらったんですけど、アジアの可能性をすごい感じましたね。日本も良いんですけど、日本の場合は日本だけで成り立っている部分が大きいと思うんですね。それは音楽だけじゃなくてすべてカルチャーが。でもアジアにいくとアジア全体がひとつのマーケットになっているんですよ。韓国とタイとインドネシアとシンガポールと…みたいに。もちろん日本でも活躍したいんですけど、やっぱりそのアジアのマーケットでも広がりたいなと思いますね。

—– そこは可能性がある限りどんどん切り開いて欲しいです。

ほんとにアジアは頑張りたいですね。もちろんアジアだけじゃなくて、僕は英語を話せるのでそれを使って、色々とアメリカとかヨーロッパでもやっていけたらと思ってます。

—– 具体的に目指すところってありますか?

3,4年後にはコーチェラとか出たいですね。
日本人だけど普通に洋楽として受け入れてもらいたいです。そういう部分でさらに広がりたいですね。

—– 海外でも日本人としての物珍しさとかじゃなく、わりとど真ん中を突破していきたいってことですね。

そうですね。ただビルボードトップ40とかじゃなく、アメリカも日本と一緒でフェスシーンがあるので、そこにはビルボードトップ40とかには載らないけど、コーチェラで毎回メインステージに出たりとかして、ファンもメチャクチャいるっていうバンドがいるんですよ。だから僕もそういったシーンに入っていきたいですね。アメリカだけじゃなく、イギリスとかオーストラリアとか世界を周りたいです。僕がいつも言ってるのは、武道館でライブをすることより、ワールドツアーをして、毎回どこかのシティーに行くたびに100人、200人が来てくれるようになるのが夢ですね。

—– 現実味もありつつ、簡単ではないことですね。

そうですよね。アルゼンチンに行って、ブエノスアイレスで100人、200人が来てくれたら最高じゃないですか(笑)

—– 可能性は全然あると思うし、近い将来の実現を期待しています。
では最後にこれを見ている方に今作の見どころ、聴き所などを含めてメッセージをお願いします。

僕が音楽をやりはじめてから今まで、デモ音源からここまで来るのにすごい時間がかかって遂に出たって感じです。すごい溜めて色々な経験をして色々な曲を書いてきて、それを全部集めてやっとこういう形で出すことができたので、レコーディンングは3か月くらいでしたけど、歌詞の内容とか曲とか全ては6年くらいかかってできたものだと思っています。

—– デビュー作ってわりと勢いで作る人も多いと思うんだけど、ことこれに関しては勢いとも違う積み重ねがありますよね。

インディペンデントでやっているときに普通にスタジオに入って作ろうかなと思ったこともあったんですけど、もったいないなと思って溜めて溜めて、だから1stアルバムだからこそできることが詰まっていると思います。


Interviewed by KISHIMOTO

Michael Kaneko – Lost In This City (Official Music Video)


リリース情報

デビュー前にすでに5,000万人を超える人々がその声を聴いている!?
大型フェスを総なめにし、CMやTV、ラジオでも既に話題沸騰中!
メジャー、インディ問わず、2017年、最も注目の新人…
Michael Kanekoが遂にベールを脱ぐ!

Michael Kanekoの人生は、ほんの少しだけ変わっている。
「子供にアメリカの教育を受けさせたい」 という理由から日本人である両親は、仕事のあてもないままロサンゼルスに移住を決意。
何も分からない4歳の少年は自分の名前がみんなの響きと違うことに違和感を覚え、自らを“マイケル”と名乗る。少年はその日から“Michael Kaneko”になった。

気付けばアメリカの地でティーンエイジャーになったマイケルは様々なカルチャーショックで悩みを抱え、自らを癒すべくギターを手にした。しかし「アジア人の自分が人前で歌うなんて…」と尻込みする彼が人前で演奏することはなかった。高校入学と共に帰国、満を持して音楽活動を開始するも、日本は空前のアイドルブーム。アメリカ、日本、自分の音楽はどこで受け入れられるのか…葛藤の日々が続いた。

しかし、その“ブルース”が彼の音楽の源となる。やるせない思いや皮肉、怒りや喜び。自分の中にある全ての感情を音楽にぶつけた。
出来上がった作品をネットにアップし、レーベルへアプローチを始めるも彼の音楽が日の目を見ることはなかった。

そんな中、origami PRODUCTIONSにMichael Kanekoから売り込みのメールが届く。ある日「TOYOTAのCMでシンガーを探している」という制作会社にMichael Kanekoをプレゼンしたところ見事採用、そのCMはYouTubeでも600万回以上の再生を記録。その後Panasonicほか数々のCMに起用され、問い合わせが殺到。

その影響で自宅でレコーディングしたデモCDの販売は累計2,000枚を超える。さらに注目してくれた早耳のフェス関係者が彼のためにステージを用意。2016年にはサマーソニック、朝霧ジャム、グリーンルームなどに出演。さらに2017年、ついにフジロックのステージに!

さらにはJ-WAVEのジングルを手掛け、デモ楽曲が「テラスハウス」の挿入歌として採用、さかいゆう、あいみょんとコラボ。フジテレビ系全国ネットのドラマ「僕たちがやりました」の音楽を担当、とにかくあらゆるところから声がかかり、一気に注目の的に!そしてその声はついに海外へ!覆面ユニットAmPm(アムパム)にfeat.で参加した楽曲がSpotifyで700万回を超える再生回数を記録(しかも再生は90%が海外!)。世界中から問い合わせが殺到する。

フェス、ネット、CM、ラジオ、TVドラマ、全てを累計するとすでに5,000万人を超える人が彼の声を聴いていることになる。このような状況下で初めてのリリースを迎えるアーティストはそうそういないのではないでしょうか!? まさに満を持して、Michael Kanekoリリースの時がやってきました!


Text by Yoshiaki Tsushima (origami PRODUCTIONS)

Michael Kaneko - 1st EP『Westbound EP』Release

Michael Kaneko
『Westbound EP』
2017.10.25 Release

01. Lost In This City
02. Flooded 
03. Separate Seasons
04. Cracks In The Ceiling
05. It Takes Two

OPCA-1034 ¥1,200+tax
バーコード : 4580246160561
FORMAT : CD(紙ジャケット仕様/歌詞カード付属)
LABEL : origami PRODUCTIONS


1. Lost In This City
Co-produced by mabanua
Drums & All Other Instruments- mabanua
Bass- Shingo Suzuki
Guitar- Michael Kaneko
Recorded & Mixed by yasu2000

2. Flooded
Drums- Junpei Kamiya
Bass- Naoto Tada
Guitar & All Other Instruments- Michael Kaneko
Recorded & Mixed by yasu2000

3. Separate Seasons
Co-produced by Shingo Sekiguchi
Drums- Junpei Kamiya
Bass- Naoto Tada
Keyboards- Kan Sano
E.Guitar, Organ- Shingo Sekiguchi
A.Guitar- Michael Kaneko
Recorded & Mixed by yasu2000

4. Cracks In The Ceiling
Co-produced by Shingo Suzuki
Drums, Percussion- mabanua
Bass, Organ- Shingo Suzuki
Guitar- Michael Kaneko
Recorded by yasu2000
Mixed by Shingo Suzuki

5. It Takes Two
Drums- Junpei Kamiya
Bass- Naoto Tada
Keyboards- Kan Sano
Guitar- Michael Kaneko
Recorded & Mixed by Masato Fujishiro


MORE INFORMATION

Michael Kaneko Official Website
http://michaelkaneko.com/

Twitter
https://twitter.com/michael_kaneko


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